大東流のおもしろさは、単一系統の技だけで編成されていないことである。
四方投げや一本捕りあるいは裏落としといった技は、上肢を外形線の外側に引き出すことで体幹を崩し、投げや極めに繋げていく。
この系統の技を読み解くには、先述の一寸引きの理はまことに都合が良い。
一方、小手返しのように、中へ中へと攻め込んでいく系統の技もある。
これらの技にあっては、攻め入ることで肘や腰、膝を崩し、体幹を崩す。
引き出して崩すか、攻め入って崩すか、攻めの方向が外と内の真逆であっても、共通するのは体幹の崩しである。
柔術、合気は、ともに、接触点を崩すだけではない。そこを通じて、いかに身体全体の崩れを引き出すかを意識している。
特に合気の場合は、接触点の崩れから体幹の崩れを引き出す。その間に時間的余裕はない。
ほとんど瞬時と言って良く、その体幹の崩れが極めに至るまで続く。
宇都宮先生は、会報の中で「合気とは攻防一致の瞬時の攻め崩し」と書いた。
この事は、先生の演武を見た印象にも、合気を掛けられた時の感覚にも一致する。
人間の反応速度は0.3秒と言われているから、それ以内の速度で崩しているということになる。
この瞬速に体幹を崩すというのが合気の妙味であり、その瞬間という時間の短さが不可思議さであり、それは同時に合気の難さにつながっているのだろう。
しかし、瞬速に崩れるには崩れるだけの理由がある。それを端的に言ってしまえば、術理ということになる。
大東流の技に複数の系統があると冒頭に記したが、それは、取りも直さずそれを支える術理にも複数あることを意味する。
要は、それらの術理を丁寧に一つ一つ拾うこと以外にない。
どのよう場面を対象に、どのようなメカニズムが働いて体幹が崩れるのか、どのように身体を使えば術理に沿った使い方になるのか、それを知ることに尽きる。
この体幹の崩しという視点から技の展開を見る時、視座は一気に高まる。
今まで見えなかった技の景色が急速に見え出してくるに違いない。
術理が読み解き易くなり、技の掛りの出来、不出来が分かってくる。
技の理解が進むごとに、その組み立ての巧妙さに感銘することになるだろう。
技の所作一つ一つが実は相手の体幹を崩す、この一点に向けて精緻に組み立てられているからである。