一寸引きの理
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ウィトルウィウス的人体図で、解剖学的視点から人間の可動域の限界を示した。
その人体図では、手先の先端と足先の先端とを結んび丸い線が描かれている。
この円あるいは立体的に捉えるなら球といっても良いのかもしれない外形線。
これが、ダ・ヴィンチの示した人間の可動域の限界である。
当然のことであるが、人間は、誰であっても、この円あるいは球の呪縛からは逃れることはできない。
この丸い限界線から、ほんの3センチすなわち一寸ほど引き出されると、体幹は容易に崩れることになる。
このことは単純ながら、極めて重要であり、その意義を、いかに強調しても強調しすぎるということはない、それほどの気付きと言えよう。
一寸引きの理の視点から見ると「技とは相手に限界線からの逸脱を強いるもの」、そのように表現してもあながち間違いではあるまい。
この理を技の運用に活かさない手はない。
まずは、掛け手受け手を中心に円または球をイメージする。
その外形線までの距離、逸脱の有無から彼我の動きを観察するようにする。
そして、技を掛けるにあたっては、この理に即して効果的かどうか、これを常に意識し吟味しなければならない。
即していなければ、すべての動きは相手の身体の動きの中に吸収されてしまい、相手の体幹になんら影響を及ぼすことがないからである。
ひどい場合は、体の伸びきった体勢で掛けようとしている。大抵、そのような場合、外形線の外側にで掛けようとしていることが多い。
このような身体使いを何万回繰り返そうが意味はない。
一つ一つの動きをこの理に即するように修正を加えていく。
この理は、柔術、合気ともに当てはまる。
とりわけ、間合いと呼吸で掛ける合気の場合、その有り様は見ごととしか言いようがない。
相手の気づかない内に一寸引きの状態を作ってしまう。掴んだ瞬間には相手の体幹を崩しているからである。
しかも、練達者は相手の掴みのタイミングですらコントロールし、合気を掛けるのにもっとも有利なポジションで掴ませている。
そして、それは、多くの場合、掴みにくる相手の動きを利用して行なわれるため、受け手は自らが掛け手を利しているとはまったく気づかない。
無論、合気を掛ける側は、合気を掛ける明確な意思の下に、その術理の示す通りに身体を動かしているだけである。
間合いと呼吸を狙いすまし、合気が掛かかり易い状態を作る。
その動きは、わずか数センチ、練達の者にあってはその動きは1センチ内外。
これでは、外からはほとんど動いているようには見えない。
しかし、掛ける側からすれば、掛かる状態を作って掛けているのであるから、合気は掛かるべくして掛かるということになる。
ここが合気の妙味であり、それを支えるいくつかの術理の一つが、一寸引きの理なのである。
このように考えてくると、難解そうに見える技も、存外、単純な理の中にその読み解きの解があるのかもしれない。
小手返し 居取り 両手取り
両腕を取られる際、若干の攻め合気
両肩を詰まらせた形で腕を開き→柏手を打つ
上記二点の後者は抜きの合気?
手鏡を作り合気で上げる
→基本形に指先から上げるが、腕の湾曲が保たれながら(強い形)重要か?
体を浮かせたまま後方に崩し、小手を取り膝を引き
肘を決め残心
※小手を取った際、相手の肩口に返す